リハビリと備忘録を兼ねて書き散らかす。如くシリーズは8まで体験済み。
内容としては如く1を下敷きにシリーズの各要素を散りばめつつ再解釈・再構成されている。
なので「堂島の龍」が何を指すのかも原作ゲームとは異なるし、原作ゲームでは姿を見せなかった錦山の妹が登場したり、逆に存在しなかった由美の姉・アイコが登場したりする。
本編は桐生・錦山が堂島組に入った1995年の時間軸と桐生が出所した後の2005年の時間軸を行き来しながら展開される。
1995年の焦点は「なぜ桐生が親殺しとして投獄されることになったのか?」も含め「なぜ2005年の各キャラクターの現状に至ったのか?」といったところに集約され、滞りなく観れるのだが、2005年の焦点は「100億の行方」をメインとしていたはずが「神室町で暗躍する殺人鬼の正体は?」だの「東城会vs近江連合の抗争の行方は?」だの桐生の行動にあまり関係のないものがチラつくようになり、気もそぞろといった姿勢で最終回に臨むことになる。
東城会vs近江連合の抗争もなんか宇野祥平が我慢できなくなって刃傷沙汰におよんだのに火がついて
大立ち回りになるのだが、視聴者は置いてけぼりである。
コンセプトとしてはゲームの如くシリーズとは異なる、ドラマ(実写)だからこそできるアンダーグラウンドの描写による綺麗事のない龍が如くを展開する…みたいなところにあると思っている。しかし、それを踏まえて配置された錦山の妹の不憫さがヤバかったり、由美の姉・アイコのクズっぷり(生い立ちによるものとはいえ看過しづらい)が際立っていたりと主人公である桐生の行動を霞ませてしまっている。
桐生がどう動いてもどうなるものではない、が綺麗事のない龍が如くの結論ではあるので、それをそのまま描写するのはコンセプトに真摯であるとも言えるが、果たしてドラマティック(劇的)であるかと問われると否定するほかない。
桐生の悲劇は概ね錦山との敵対・別離に集約されるのだが、そこに集中するための積み重ねが6話全体で不足している。桐生の悲劇、由美の悲劇の2本立てとして進行しつつ影でチラつく“堂島の龍”の謎に迫る…といった構成だと見やすかったと思う。
それにしても風間の背中がチラついて“堂島の龍”はお前だったのか…!となるラストシーン、何もカタルシスがなくてすごい。
3話までなら堂島と敵対する男・風間の風格があったのだが、4話以降特に存在感を示せず調停役に徹する男としての描写しかなかったので、もっと暗躍する描写が必要だった。
何にしても原作付きの映像化に関して、純粋に内容・展開を楽しめずに「この内容を出してくる意図」を考えさせられながら見続けるのは辛い。
それだけは事実である。